グラバー園の話
世界遺産となったグラバー園の話です。イギリス商人のトーマス・グラバーが南山手の小高い丘に居を構えたのは、開国から5年後の1863年でした。グラバーは日本人と結婚し、ここを生活の拠点とします。
1939年、三菱造船所は息子の倉場富三郎(グラバートミザブロウ)からグラバー邸を買い取りました。何と建造中の戦艦「武蔵」がここから丸見えだったことが理由だと言われています。1957年、グラバー邸は長崎市に寄贈され、隣接していたリンガー邸、オルト邸、さらに市内に残されていたウォーカー邸などの洋館を移築、復元して、現在のグラバー園が形作られました。
洋館の秘密
東・南山手に残る洋館、異国情緒を漂わせています。ところがよく見ると、欧州の洋館には絶対ないものが乗っかっています。そうです、屋根瓦です。
開港当時、こんな家を建てろと、イギリス人から図面を渡された大工さんたち、途方に暮れたに違いありません。障子もなければ縁側もない、代わりに暖炉とテラスがついている。こんな無茶な要求に、健気にも江戸時代の伝統工法で応えました。ただし、唯一変更したのが屋根瓦だったのです。これは、技術面もさることながら、日本の気候を考慮したからと言われています。
ちなみに、洋館はメートルでもインチでもなく「尺寸法」で建てられています。寸法からして和洋折衷だったのです。
オランダ坂の謎
山手地区を歩くと「オランダ坂」や「オランダ屋敷」などオランダがついたものが目につきます。ところが、坂も屋敷もオランダの建築様式とは何の関係もありません。なぜ、オランダになったのでしょう。
実は、鎖国と大きな関係があります。江戸時代、国交を許されたのは非キリスト教国であったオランダと中国だけでした。出島に訪れる西洋人を当時の長崎の人々は親しみを込めて「オランダさん」と呼びました。
開国後、外国人居留地にはイギリスをはじめ様々な国の人が入ってきましたが、外国人の呼び名は「オランダさん」のままでした。長崎では「外国=オランダ」だったのです。そこで、外国人が往来する石畳の坂道は「オランダ坂」と呼ばれるようになりました。
【企画・デザイン】
活水女子大学 生活デザイン学科
浜谷信彦研究室
デザイン制作:友池知郁、小峰千夏
(企画原案:大久保舞花、末吉菜摘)
Special Thanks
里形美宇ほか研究室のみなさん